京都大学総長も務められた
医学博士 井村裕夫先生は著書でこう述べておられる。
「…病気の原因と、この成立の過程を明らかにすることは、医学にとって大変重要な課題である。それによって正確な診断法と適切な予防・治療法を確立できるからである。」
「しかし、医学が問いかけ続けてきたことは、主にどのようにして(How)ヒトは病気になるのかであって、なぜ(why)という問いへの答えではなかった。なぜ?という問いかけへの答えは仮説になってしまうことが多く、医学はむしろ避けてきたとすら言える。」
20年近く前の著書であるが
さすがに鋭いご指摘である。
その18年後の結果のひとつとして…
我が国の約70%のヒトは生活習慣病関連にて年/40兆円の医療費を使って死亡しています。
「どのようにして(How)病気になるのか?なぜ(Why)?病気は無くならないのか?」
HowとWhy…
学問である為にはHowは必要です。
様々な学問ごとにピラミッドを作って効率よく
責任の所在を明確にして探求を進めていく。
これらは必要な作業ですし
われわれはこれらの構築は得意としているようにも思えます。
しかし現代社会においては
Howの無数のピラミッドを構築しても解決できない問題。
治療治癒困難な様々な厄介な症状などが大きく残っています。
「どのようにして(How)病気になるのか?…」はわかっても
生活習慣病は増えるばかり。
「どのようにして(How)親が子を殺す…子が親を殺すような事件が起きたのか?…」はわかっても、信じられないような事件は増えるばかり。
どのようにして(How)は割り切れる話であったり
人間社会において通用する解釈と用語によって整理されますので
言わば正解がある世界。
けれども
なぜ(why)?の話となりますと
食べられればいいわけではなく
住まいがあればいいわけではなく…
「食の質」や「食の選択のタイミング」や「住の質」…
などなど無数の素材選択+更に質の選択と時期の選択+量のさじ加減…
などなど必勝法の無い
無数の組み合わせになってくるので
学問にはなり得ない。
昔で言う「おばあちゃんの知恵のようなモノ」というとわかりやすいであろうか。
バランス、塩梅(あんばい)…
過ぎたるは…足るを知る…。
「要旨までは教えたるが、あとは自分で考えろや。」
わたしが言い続けている
「住まいに【百年杉】が無いから未来の幸せの到達度を低くしているんじゃないですか?」
というのだって
「【百年杉】があれば皆幸せになれる。」ということにはならない。
しかしいくら「食の質」に留意しても
「住」に無頓着では到達できない領域があると言い続けています。
おわかりいただけるであろうか。
デジタルの時代になると比較が容易ですので
常に「A or B」のどちらの選択が有利か?という考え方になりがちです。
しかし同じAでも「Aの質」や「Bの質」の議論にはなりづらい。
なぜなら「質」の話には一生をその分野に賭けた専門家が必要であって
そういうヒトが絶滅危惧種であるからではなかろうか。
わたしは現代社会の閉塞感を打ち破るには
木が杉が…【百年杉】が必要だと考えています。
【百年杉】があれば問題解決ではないけれど
【百年杉】無しではかなりキビシイ。
屋内空気の質の改善と足裏の好適な感触にたいする対案が無いと考えているからです。
現代社会に残された大きな課題である
Whyの話に対して
多くの分野の専門家の経験が役に立つ日を夢見ます。
わたしは植物のなかの杉の専門家としてお力になれればいい。