『百年杉』の専門会社 加藤木材

前回まで記してきたように
欧州の低湿の安定した気候は
人類の繁栄を安定的にもたらしてきたのであろうが
噴火も地震も台風もない安定した環境要因は

「自然界の力弱き環境=“薬草“無き植物の質が低い土地であった=“土”の質が低い大陸=地産地消では“食”が足りない」の継続であったので、

欧州の人類は
絶えず他地域への侵略を継続し続けていった。

「結果」としてではあるが
欧州の人間は人種的にもウイルスや細菌類に対して弱いように見える。

ペスト、インフルエンザ、スペイン風邪、COVED19…
いつも東洋よりこっぴどくやられています。

やはり微生物を含めて多様な“いのち”のプレッシャー下にないからね。
どうしても遺伝子的には弱い人間になっちゃうよね。

お野菜や発酵食の多様性もそのひとつだろうね。
発酵させるための多様性が足りない環境なんでしょうね。

木もそうである。
欧州の木は
数は多いのだが、種類は少なく多様性に欠けるものである。
そしてやはり「質は弱っちい」。

外部放置すれば、半年で朽ちて無くなるような木ばかりである。
「香りなき木」ばかりですしね。
まさに「害のない素材」の域を出ない印象。

木の持つ“魔法”のような輝きは
香りが目安ともいえるので、魔法を持たない木ばかりなのである。
野草も同じであろう。

多様な環境要因によるプレッシャーを受け続けた野草にのみ
“魔法”が宿り、それこそが“薬草”の称号を得るのである。

人間にとってありがたい「鎮静効果や質の高い睡眠」をもたらすことがわかってきた
「杉の香」はこのストレスフルな社会において
“薬草”ならぬ“薬木”のように思えるものである。

多湿で多様な環境下にある東洋では
強烈な紫外線、台風や強烈な風雨、極寒の降雪、噴火、地震、津波、河川の氾濫など
実に多様な環境的なプレッシャーがかかり続けるのである。

それでも種を継続し続ける植物には
“魔法”のようなパワーが宿り
それらが“薬草”と呼ばれる。

身体が不調の際に
“薬草”によって、治癒や良化の症状が得られれば

人々はその“魔法”を宿す経過でもある多様な大自然に畏敬の念を持つような
メンタリティになるのであろう。

地震、台風、津波、噴火、氾濫…

何があってもへこたれずに明日を見つめて
リビルドし続けてきた、かつての日本人のメンタリティである。

自然によって辛い目にあうのであるが
その大自然に…人間はかなわないし
その大自然の中で生かされているという考え方である。

このあたりの思考は仏教の輪廻転生にも通じるように思うものである。

それにたいして
安定した単調な自然環境である欧州では
全知全能のGODがこの大自然をも創造したという宗教である。

たいしたことのない自然と言えば
さすがに過ぎた言葉であるが

東洋との比較において、おとなしく力弱い自然である西洋は
わたしたち人類と同じような容姿のGODが
「この自然さえも創りたもうた…」との思考につながったのであろう。

宗教批判ではなく
この部分は大きいように考えるものである。

欧州の宗教の教徒の方々の思考は
「神になる」のような考え方は無いのでしょうが
「神に近づく行為=自己啓発としての人生」というのはあるように思う。

野草も“いのち”を救ってくれるような“薬草”はないしね。
自然に頼らずに自ら道を切り開くという考え方。

欧州の建築家の方の講演を聞いていても
数回出てくる共通の言葉…。

「なぜ木を使うのかと言えば
それが害のない素材であるということが立証されているからだ。」

学問という行為が
神に近づくための行為=素晴らしく誇り高き人間になることであるならば

木は害がないから使うまでのことなのである。

「杉が無ければ子は育つまい」のわたしの思考とは
大きくかけ離れているものである。

たいしたことのない自然しかない西洋の人間は
東洋の人間であり
かつ「森の恵み」を扱うわたしのような人間からから考えると
「驕(おご)り」が過ぎるように見えるのである。

わが国の木は単なる害のない素材ではない。
人類が求め続けるお友達のような存在であるはずである。

「自然界の質」が違えば、人間の基軸まで大きく違うようになるものである。
宗教が違うから…ではなく
その宗教の性質さえも
もとは“自然界の質”の違いによるものではないだろうか。

(つづく)

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