『百年杉』の専門会社 加藤木材

暴論を記すことにする。
今回の結論は暴論である。

宮台真司の本を読み進めれば
「災害ユートピア」という概念があるらしい。

災害時にシステムが頼りにならない分
人々のもともと持ち合わせている良心が営みとなって現れる。

95年の阪神淡路大震災の際にも
暴力団の山口組が抗争に備えた備蓄を放出して
人助けをしたことは新聞記事にもなっているそうだ。

しかし2011年では災害発生2~3日後に
被災地に支援物資が届いたのだが
末端の配分でトラブルが生じたと宮台真司は語っている。

以下そのまま彼の言葉を記す。

『人々の間に「お先にどうぞ」といった感受性が働かず、全員分の物資がそろうまで配れない避難所が続出したのです。例外は創価学会が運営する避難所と、寺の檀家が運営する避難所だったというのが、僕のゼミ出身のボランティアたちの調査結果です。システム世界の外(つまり共同体)を日頃から大切にしてきたからでしょう。
 これまで僕は「システム世界の外を大切にしろ」と言い続けてきました。災害でシステムがつぶれた際に人々の良心が営みとして表れてほしいと僕は願います。それは、倫理にはゲノムの普遍的基盤があれ、どう表現するかは、生きてきた文化環境次第だからです。
 避難所で支援物資を待つ場合、「自分の仲間は家族だけ」と思う人は、よその家族に先に配られると不満を感じるけれど、「地域の人たち全体が仲間だ」と思えたら「お先にどうぞ」と言えます。「自分に近い人を仲間として尊重する」という倫理が同じでも、「どこまでが仲間か」の認知が成育環境次第で変わるのです。それが、ゲノム的基盤があっても振る舞いが違ってくる理由です。』

彼が言うゲノム的というのは
進化の過程の中で、哺乳類脳を得て
「協調することによって身を守る」というプログラミングが
人類にはある…というような話である。

実はわたしは
震災後の仮設住宅支援事業をしていた際に
複数の地域で
「50人の避難所に40個のおにぎりが届いたのだが廃棄処分をした。」という
話を聞いて
ずいぶんと憤りを感じたものでした。
そしてその義憤の矛先は
地方自治体職員さんという職種に向かっていたのですが
それでも、納得がいかなかったのですが
しかし今回、合点がいった。

95年にはあった「災害ユートピア」としての行動は
16年後の日本には無くなっていたというだけのことである。
職員さんじゃなかった。ごめんなさい。
(少しモヤモヤは残るけどね)

思えば64年の東京オリンピックの際は
非合法組織の方々も世界中のヒトに無様な姿は見せられないと
開催期間中のマチの浄化~一時疎開にも相当協力したと聞いたことがある。

しかし、親が超近眼的な目先の損得論ばかりを
こどもに問い続けていけば
その子が「利他の心」を持った大人になるのは困難であるはずだ。

宮台真司はこうも語っている。

『答えは育ち方の環境です。お話したように「利他性」や「貢献性」について「概念としてはわかるけど、そういう感情が自分の中に生まれたことがない」と話す若い人が、すでに多数いるのが現状です。そういう人たちには共通して、誰かが犠牲を払ってでも自分を助けてくれたという経験がありません。経験が無いのは彼らのせいではありません。』

こういう「結果」になったのは
この国の数千万人の大人の多様なお仕事の結集であろう。

継続すれば問題のある「衣食住」や
依存を招きかねないデジタルやパーク。
早く安くお得なお仕事は
こどもたちをシステムの中に閉じ込めて
経験の場を奪い続ける。

やはり公共の宝物としての
「こどものために」の哲学が欠けているすべてのお仕事は
乱暴に言えば不要なのではないだろうか。

SDG’Sだのカーボンニュートラルだの環境だの…
良さげなこと言ってても
「こどもの経験の機会と育成」の具体性に
具体的に貢献できないお仕事は不要である。

極端に言えば
「日本の木を使おう」なんて
キレイごとのエンドレスリピートビジネスなんかいらない。
それだったら
たとえ外国の木をバンバン使ったって
こどもたちが育まれることに主眼を置いた
子ども部屋づくりの会社の方が断然いい。

この国の改善すべきポイントは多いのだろうが
4年…8年間
この国のすべての政策的優先順位を
子どものための行動になればいいのにな。

大人の長生きなんてどうでもいいよ。
もちろんリニヤもね…。

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