先日、あるご住職とご子息の執事さまとお話しする機会がありました。
以前お会いしたのはコロナ禍前でしたので、その話になります。
「日頃より、“いのち”について考える機会が無いので…」
「“死”について考える機会も無い。」
「だからこういう機会に、取り乱し…恐れ…憎み…見苦しい反応になる。」
というような話を互いにしました。
言葉は少なく、互いに目をあわせながら…うなずきながら3者で“同事”の感覚でした。
八百万の神とは八百万の“いのち”であり
すべてが“いのち”ということです。
もれなく“いのち”です。
わたしたち人間は
それらの“いのち”を殺し続けて、利用し続けなければ生きていけない生き物です。
動物や鳥や魚をいったん殺してから食します。
お野菜も成長を前提とした“いのち”を奪い、大地より引っこ抜き…
果物も“いのち”のつながりを切断して、もいでから食します。
わたしが愛する【百年杉】もそう…。
成長を前提とした“いのち”をいただいて伐採してから利用します。
木が木材となっても
わたしはそこに”いのち”が宿っていると考えていますが
成長を前提とした”いのち”を殺さなければ
【百年杉】の恩恵を得られませんので殺します。
そしてだからこそ木材も”いのち”として生きているという
考え方をしています。
とにかくヒトが生きるということは“いのち”を奪い続けることなのです。
“いのち”があれば“死death”も必然となります。
そうやって考えていくと
これだけ身の回りのほぼすべてを殺しまくっていながら
自らの“死”について考えたことが無いというのは
確かに恥ずかしい日常のように思えてきます。
未来はまったくわかりません。
しかし、自分が死ぬことだけは100%必ず実現することです。
それだけは間違いなく必ず起こる未来事項なのです。
死なないヒトもいますが
それは私の方が先に死ぬから
わたしから見たら「死んでいない=死ななかったヒト」ということで
やはりわたしもあなたも必ず死にます。
“死death”という必ず訪れる未来を予測せずに
ただただ毎日の“いのち”殺しの継続では
たしかに見苦しい思考と行動になるのかもしれない。
こういう考えはわたしの仕事が“木”だからであって
プラスティックでは生まれなかったように思う。
木に触れ続けていると「宿る」感覚はたしかにあります。
わたしは杉という“いのち”に完全に取り込まれています。
やられちゃっています(笑顔)。
「こいつは、おれたちの種族繁栄に利用できそうだから
そろそろ〇〇な考え方を授けよう。そのために、あのヒトに引き合わせるか。
そろそろ、こいつもこの出会いを自己の力にできるようになっただろう。」(【百年杉】談)
身の回りに“いのち”無き
無機質の化学物質オンリーの“住まい空間”では
自己の“いのち”キラーの日常に気づけないのは必然。
住まい空間に「心地よさ」をもたらす【百年杉】という“いのち”があり
その継続に感謝する気持ちが自己に宿れば
「そろそろイイ頃かな。」(【百年杉】談)とばかりに…
【百年杉】という“いのち”が
わたしたちの次の幸せへのステップを作り出してくれているのかもしれない。
わたしはそういうイメージを持っていて
実際に可能かどうかは本番を待つしかありませんが…
明日はきびしいけれど
来週くらいであれば
自分の“死death”も受け入れられる感覚は持っています。
ようやく、頭と腹が一致にむけて…近づいてきたのかもしれません。